ペルシア語の「tazi」の音訳。もともとはアラブの部族の名前でした(タズィー族またはタンジー族で、イランの国家とは何の関係もありません。標準的なアラブの部族ですが、この部族は長い間ペルシャ人と接触していたため、ペルシャ人はアラブ国家全体をこの部族と呼ぶのが好きです)。中国人はペルシャ人からアラブ人について学んだため、アラブ人を指すのに「ダシ」という用語を使用しました。中国の唐と宋の時代のアラブ人とアラブ帝国を指す特定の用語であり、イラン語を話すイスラム教徒を指す一般的な用語でもある。 7 世紀中頃の唐代の文献では、アラブ人は多氏、多氏、大氏と呼ばれており、10 世紀中頃以降の宋代の文献では、主に大氏と呼ばれている。遼王朝と宋王朝の文献における「大氏」という用語は、一般的には今でもアラブ人を指し、場合によってはカラハン朝ハン国を指すこともある。唐都桓の『遊記・大秦国』:「大秦はヤジュロとも呼ばれ、大秦王は木門と呼ばれ、都はここにある。男女は背が高く、力強く、衣服は清潔で、容貌は優雅である。」 『新唐書・西域・大秦』:「大秦はもともとペルシャから来たものである。男性は鼻が高く、ひげは黒く、女性は色白で、外出するときはいつも顔を覆う。一日に五回神を拝む。」 『宋史・外伝六・大秦』:「唐の永徽年間以降、[大秦]は頻繁に貢物を納めるようになった。王が白衣の大秦に変わる前は白衣の大秦と呼ばれ、アプラバ以降は黒衣の大秦と呼ばれた。」 『遼史』によれば、克老公主はアラブ帝国(カラハン朝)に嫁ぎ、その結婚を申し込んだ王子はカディル・ハーンの息子チャグリ・テキンであった。遼とカラハン国との結婚の背景には、両者間の政治的、経済的交流の必要性があり、結婚によってそうした絆が強まった。五代を経て宋王朝が台頭した。宋王朝の歴史書に出てくる「大秦」は、主にカラハン朝(ウイグル人が建国した)を指している。当時カラハン朝は大秦帝国(アラブ帝国)に依存していたためである。 |
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